2012.04.21

遙かなるイタリア

わが家はいま、唐突にイタリアブームである。
今年、まとまった休みがとれそうなので、イタリアに行ってみようか、という話になったのだ。

すんなり決まったわけではない。
妻はそれなりに海外旅行の経験があるが、ぼくは飛行機と外国人が怖いので、ほとんど海外に出たことがない。別に出なくてもいいや、と思っていた。

で、せっかくの休みに何をしようか、折角だからこういう機会でもないとやりそうにないことをしてみようかと考えたのだが。

    * 断食道場
    * わが家のペンキを全部塗り直す
    * 「資本論」読破
    * 不眠不休連続しりとり合戦目指せギネス
    * お遍路さん
    * 布団から出ないで何日過ごせるか試してみる
    * ひげを剃らないとどうなるか試してみる

とアイデアを並べているうちに、なんとか休みが消えてなくならないかな、と考えだしたので、これはいけない、と方向転換することにしたのだ。

旅行先としてイタリアを選んだのはぼくだ。理由はいくつかある。学生時代にイタリア旅行の経験がある妻によると、

・食い物がやたらと美味いという噂

どこで何食ってもうまいという。特にイタリアのオレンジジュースの味が今も忘れられないそうだ。

・英語があんまり通じないらしい

ぼくはどうせ英語が話せないのだから問題ない(問題はあるのだけれどそれ以上はひどくならない)。むしろ、英語が話せて当たり前みたいな顔をされるより面白そうだ。

・いい国らしい
聞きかじりの情報を総合すると、町の商店は12持くらいに閉まってしまい、ゆっくりと飯を食って、昼寝して、3時過ぎからまたちょっと仕事して、7時過ぎると帰ってしまい、また3時間くらいかけてゆっくり飯を食って、寝ちゃうらしい。本当ならイタリア人は朝飯を入れずに一日6時間くらい飯を食っている計算だ。いい国に違いない。

というわけで、いま忙しい。
旅程を練ったり、随分前に切れたパスポートの手配をしたり、町の地図を手に入れたり、ホテルを確認したり、観光スポットの情報を入手したり、美味い店を探したり、イタリア語の勉強をしたり(主に妻が)、パスタを食ったりしている(主にぼくが)。

ただ、若干気になることもある。

ぼくはイタリアの歴史や文化的背景について何も知らない。
ローマ帝国のことも、ルネッサンスのことも知らないし、芸術に関する造詣もない。
メディチ家とかチェザーレ・ボルジアとか聞いたことはあるけれど、何をした人(?)なんだかわかってない。
バチカンにはローマ法王も有らせられるというのに、キリスト教のことを知らない。カトリックとプロテスタントの違いもよくわかっていない。
芸術作品にもキリスト教に題材をとったものが多いと聞くが、元ネタを知らない。
なんで長靴の形をしているのか、どうして傾いた建築物を自慢しているのかも知らない。

これではイタリアに失礼なのではないだろうか。
日本に来た海外の旅行者が「ワタシ、スシ食いにキマシター HAHAHA!」とのたまったら、ぼくだってちょっとムッっとしはすまいか。

ひとの国を訪れる以上、その国のことについて最低限のことは知っておきたい。
しかし、どこから始めたものだろうか。
やっぱり、最初からだな。
最初っていうと、えーとえーと。

というわけで、旧約聖書から読み始めた。
神様が「光あれ!」というところからだ。
ちゃんと読んだことはなかったので、なかなか興味深い。
こないだモーセがエジプトを脱出した。

飛行機が飛ぶまでに、間に合うんだろうか?

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2012.03.26

並んだ夜

とぼとぼ帰る途中でふと夜空を見上げたら、ちょっと珍しい形に星が並んでた。

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不意をつかれて、暗い夜道でふと立ち止まる。
やじろべえみたい。

スマートフォンに入れてあったGoogle SKYで確認すると、上の星が金星、月をはさんで下が木星。

Image3

まあ、それだけのことではある。

たまたま地球から眺めると、並んで見えただけのことだ。
並んでないことがあるんだから、並んでいることだってあるだろう。
だからどうということもない。いつもと同じ、いつもの夜である。
明日も会社だ。

と思いつつ、家に帰って着替えもせずに背広のままベランダに出て、三脚を立てて写真を撮ってみる。
レリーズどこだっけ?

昨日の夜も、明日の夜も、同じといえば、同じ夜。
でも星を見るひとにとっては、同じ夜ではない。
並んでいなかったり、並んでいたり。
また並んでいなかったり。
どの夜も、それぞれの夜。

うまくいかないこともあるけれど、たまには星でも眺めてみようと思う。

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2012.02.04

轟天号の遥かな旅

フライフィッシングの楽しさを人に説明するのは難しい。

ぼくは夏になるとしょっちゅう会社をサボるので、仕事をほっぽり出してどこで何をしているのか不思議に思う人もいるらしい。たまに、フライフィッシングというのは何をするのか説明するハメになるのだが、

  1. 高い金を払って、名所旧跡や温泉はおろか、トイレすらないところに行く。
  2. グルメスポットは存在しない。食い物はコンビニのおにぎりである。
  3. 数キロの道具類を背負い、歩きにくい長靴(みたいの)を履いて、炎天下を何キロも歩く。
  4. 川の中で転んだり、虫に刺されたりする。たまにクマが出る。
  5. そういうところで基本的にはこんがらがった糸をほどいており、余裕があると釣りをする。
  6. まれに魚が釣れることもある。
  7. 万一魚が釣れると、眺めたりちょっと触ったり写真を撮ったりしてから、逃がしてしまう。
  8. 以上を延々と繰り返す。

と正直に説明すると、ほとんどのひとが生暖かい微笑を浮かべて口の中でなにかもごもご言い、どこかに行ってしまう。
その後、フライフィッシングが話題になることは、まずない。

この秋の釣行で、妻が80cmを超えるアメマスを釣り上げたのだが、それをひとに話しても同様で反応はにぶい。ひとりだけ「美味しかった?」というひとがいたけれど、いやその、食わないんで、としどろもどろに説明したら変な顔をされた。
いや、80cmというのはかなり大きい部類で・・・と説明しても、状況は変わるまい。それはしょうがないのだろうと思う。釣ったのが80cmの金の延べ棒なら、その価値は換算できる。だが、食うわけでもない大きい魚は一般的な意味での価値はなく、「80cm超のアメマス」は普通の人にとってはただの記号に過ぎないのだから。

でも、妻とぼくにとって、あの80cm超のアメマスは、記号ではない。名前までつけたんだから。

 

轟天号(←名前)は、その川の最上流部、こんなところに? と思うような、平凡で目立たない瀬の下にいた。アメマスらしく潜水艦のように川底に張り付いて、ゆらゆら揺れる影になっていたのだ。大雨で川が増水し、釣りにならなくなってから2日目、ようやく水が落ち着き、天気も好転してなんとか釣りになりそうだったその日、下流から釣り上がってきた妻と、数十キロ下流の河口から何日かかけてここまで登ってきた轟天号がばったり会ったのだ。時間は午前10時過ぎ。

そのときぼくはそばで釣っていて、妻のロッドがぐん、としなるのを見た。この時期のアメマスはおしなべて大きいので驚きはしなかったが、なんだかちょっと様子が違うので見に行ったら、魚が一瞬水面に上がってきて、がぼん、と聞きなれない音を立てて反転した。そのとたん、鳥肌が立った。見たことのないサイズだった。

アメマスはニジマスのような瞬発力はない代わりに、絶対に諦めない、しぶといファイターだ。並のサイズのランディングネットは使えない。でかすぎるし、それほど素直に寄ってくれる魚ではないからだ。浅瀬に寄せて確保するしかないのだが、魚の身体が水面から出れば出るほど重くなり、パワーはいつまでも衰えない。その重さもパワーも、魚のサイズにあわせて大きくなるのだ。身体が水からほとんど出ても、蛇のように体をくねらせ、浅瀬を水しぶきを上げて突っ走って、川に帰ろうとする。魚が走ったらラインを出していなしてやるしかない。引っ張りっこになればラインを切られるか、針が伸びるか。いずれにしても魚の勝ちだからだ。とはいえ、倒木の中に逃げこまれでもすれば勝負は決まってしまう。ラインが切れないぎりぎりのところでやりとりし、ダッシュが止まったらまたじわじわと引き寄せる繰り返し。それを繰り返すうちにラインや針の限界が来る。急いでもダメ、長引いてもだめ。アメマスはかけてからが勝負だ。

引き寄せては走られる、何度繰り返しただろう。いま切られるか、もう切られるか、という状況で、何百メートル下流に引きずられながら、とうとう妻は魚を浅瀬に寄せ切った。ぼくが魚と川の間に入って、最後の最後で取り逃がす悪夢のような光景を振り払いながら、魚を確保。堂々の80cmオーバー。
銀色のきれいな魚だった。

浅瀬をほじくって作った即席の生簀に入れて、しばらく休ませつつ、写真を撮ったり、話しかけたり。十数分後、轟天号は自分で生簀から出て、ゆっくりと川に帰っていった。あー、えらい目にあった、という声が聞こえるようだった。
ぼくは思わず遠ざかる背ビレに声をかけた。

 

もう釣られるなよ、おい。

 

こうして轟天号は我が家の物語となり、今夜もぼくらは夜の居間でお茶を飲みながら、彼について話す。
その魚がどんなに強かったか。
どんなに立派で、どんなに綺麗だったか。

そして自分たちのしたことを棚にあげて、心配をしたりする。
あのあと、また釣られたりしなかっただろうか? 
ちゃんと海に帰っただろうか?
今頃、どこにいるだろうか?
美味い小魚を食っているだろうか?
また今年、あの川に戻ってくるだろうか?
ひょっとして、また会えたりしないだろうか?

 

で、ふと思ったのだ。
妻が釣り上げたのは大きな魚ではない。
轟天号という名前の、ひとつの物語なのだ。

ぼくらは轟天号を釣り上げることで、その物語を所有することになったのだ。その物語には、その川で生まれ、海に下り、大きくなって、何度かその川に戻ってきただろう銀色の魚の物語はもちろんのこと、たまたま出会って一緒に暮らすようになり、釣りを始めて、その川に出会い、たまたまその日、その瀬に竿を出した、ぼくたちの物語も含まれる。
この先何年も、ぼくらはある夜にふと話すだろう。
轟天号は元気かな?

 

つまりはそういうことなんだろうと思う。
釣り人は魚が、登山家は頂上が、盆栽を育てる人は曲がった小さい松が欲しいのではない。嘘だと思ったら、釣り人に魚屋で買った立派なタイを進呈してみるといい。
テニスプレイヤーも、野球の選手も、棋士も、勝利が欲しいのではない。嘘だと思ったら、一流のテニスプレイヤーにじゃんけんをさせて、あんたが勝者です、と宣言してみるといい。
どっちも喜んではくれないだろう。

ぼくらには、物語が必要なのだ。
大きな魚や、困難な勝利にまつわる、物語が。

そして言うまでもないけれど、物語は大きな魚や勝利が条件というわけではない。
釣りおとした魚や、敗れた戦いにも、それぞれの物語がある。
それもまた、語られるべき物語である。

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2012.01.01

迎春

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 妻の恐るべきおせち。


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2011.12.18

あなたのたい焼きはまちがえている

 

あなたは、この世界の成り立ちに、ふと疑問を感じたことはないだろうか?

 

それは多くの場合、最初はごく小さい違和感に過ぎない。
靴の中に、砂が一粒紛れ込んだようなものだ。若干気になりはするが、歩きにくいといったようなしろものではない。
ほかのひとも気にしている様子はない。
きっとどうでもいいことなのだ。いずれ慣れて忘れるだろう。
あなたはそう考える。

 

実際、慣れて、忘れてしまうことも多い。
それがとりもなおさず、成長というものだ、というひともいる。

 

が、忘れられないことも少しはある。
いつまで経っても慣れはせず、靴の中の一粒の砂はいつか角のある小石となって、あなたのかかとを傷つける。

それでもあなたは歩いて行く。
いつかかかとは板のように固くなる。
小石があなたのかかとを傷つけることはもうない。
でも、小石はいまもそこにある。

 

それが良いことなのか悪いことなのか、ぼくにはまだよくわからない。
たぶんずっとわからないのだろう。

 

だがふと足をとめ、道の端っこに移動して、靴の中から小石を出して、まじまじと眺めてみる、というのもひとつの方法だ。
後からきた人には追い越される。
どうせ歩いて行く限り、またいつか小石は紛れ込む。きりはない。
だが、小石のむこうに、ある世界とあり得べき世界を並べて眺めてみるのも、たまにはいいのではないかとぼくは思う。

 

だから、ぼくも言ってみよう。
正しいことなのかどうか、わからないけれど。

 
 
 
 

薄皮たいやきは間違えている

 

 

 

 

わが家の最寄りのたい焼き屋は薄皮たい焼きだ。
会社の近所にたい焼きの名店があるときいて、わざわざ電車にのって出かけた先も、薄皮だった。

 

たしかにあんこは嬉しい。
たい焼きの肝はあんこだ、という見解に異を唱えるつもりはない。
皮ばっかりのたい焼きだったら悲しい。
あんこを楽しみに食い進み、しかしどこまで行っても皮ばっかりだったら、大の大人が膝から崩れ落ちるだろう。
失われた夢を思い、徒労と化した道程を振り返り、頬を滂沱と流れるものをとめるすべはないだろう。
あんこはわれらの見果てぬ夢だ。
手の届く星だ。

 

ならばあんこを主役にしたら?
あんこをもっと全面に押し出したら?
そう考えるひとがいても不思議はない。
そしてそれが多くに受け入れられたからこそ、薄皮たい焼きが世界を席巻しているのだろう。

 

 

だが、それは本当に正しいのだろうか?

 

 

たとえばおにぎり。
おにぎりだって、どこまで行ってもずっとおにぎりだったら、ちょっと悲しい。
やっぱり種に梅干しとか、たらことか、塩じゃけとか、のりの佃煮とか入っていてほしい。
種はおにぎりの楽しみなのだ。

 

だからといって、薄皮おにぎりはうまいだろうか?
巨大な梅干しのまわりに、ご飯粒がくっついているシロモノを、あなたはおにぎりと呼べるだろうか? 
遠足に行って、山の上で友達と輪になって、持ち重りのする竹の皮の包みをわくわくと開いたら、たらこに米粒をまぶしたものが出てきたら、あなたは盗んだバイクで走り出したりしないだろうか?

 

寿司。
ネタが主役に決まっている。そこに疑問の余地はない。
ハマチ、アオリイカ、中トロ、甘エビ。
普通はそういう注文の仕方をする。
ハマチとシャリください、なんていう人はいない。

かといって、「へい、ハマチおまちっ!」って、ぺちゃってハマチだけ出てきたら、あなたは冷静でいられるだろうか? 
魚の名前がいっぱい書いてある湯のみをわしづかみにして一気飲みするなどの自傷行為に走らない自信があるだろうか? 
ハマチが美味いかまずいかという問題ではないのだ。それはどんなにうまくても寿司ではない。
刺身だ。

 

肉まん。
肉がなかったら肉まんじゃない。
当たり前だ。
肉は肉まんを肉まんたらしめる精髄であり、錬金術で言うエクルシールである。
では、薄皮肉まんはありだろうか?
いっそ皮のない肉まんはどうだろうか?
それは肉まんじゃない。
肉だ。

 

メロンパン。
全部メロンだったらメロンパンではない。
メロンだ。

 

わかってもらえただろうか?
あんこが食いたいなら、あんこを焼いて食えばいいじゃないか。
食べにくい?
ではソフトクリームみたいに、コーンカップにとぐろを巻いてもってはどうだろう?
カラフルなチョコチップをトッピングしたりすると、おしゃれな感じになるだろう。
それをぺろぺろ食いながら、表参道でもどこでも歩けばいいだろチクショー。

 

 

・・・・失礼した。
ぼくが言いたいのは、たい焼きにはもう少し、皮とあんこのバランスに、選択肢があってもいいのではないかということだ。ピザだってクリスピータイプとパンタイプがあるじゃないか。
別の言い方をすれば、ぼくは皮の厚いたい焼きが食わせろ。じゃなくて、食いたい。
あんこの入ってない尻尾は決して蛇足じゃない。あんこの入ってない尻尾には、あんこの入ってない尻尾の役割というものがあるのだ。
たい焼き界の偉い人にぜひここを理解していただきたい。

 

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2011.12.10

成長とようかん

 ぼくは1月生まれなので、もうすぐひとつ歳を重ねることになる。

 

 来年いくつになるんだっけ、と妻に確認してびっくりした(家計とぼくの歳の管理は妻の担当)。こないだ生まれたと思ってたのに、もうそんなになるのか。そろそろ人間飽きても不思議はないな。

 

 人間も小さいうちは、歳をとることで、毛が生えたり、カステラの入っている上の戸棚に手が届くようになったり、エロ本を買えるようになったり、いろいろいいことがあった。
 が、人間も数十年やっていると、歳を重ねることで、毛が抜けたり、カステラ盗み食いすると血液検査の中性脂肪の項目に悪影響を及ぼしたり、エロ本買うと妻にばれたりする。最後のは歳と関係ない気もするが、基本的にはろくでもないことが多く、何がめでたいんだと思っていた。

 

 が、人間というのはこれでどうしてなかなかよくできていて、いくつになっても、かつてできなかったことができるようになったりするものだ。自分でもびっくりしたのだが。

 

 おかーさん、ぼく、あんこが食べれるようになったよ!

 

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 ぼくは子供のころ、というかつい最近まで、アズキ(小豆)が食べられなかったのだ。鼻に入れたら取れなくなったとか、アズキをぶつけられていじめられたとか、そういうトラウマ的なアレがあったわけではないのだが、あの粉っぽい感じが苦手で、ずっと目の敵にしていた。

 

 日本で暮らしてアズキが嫌いだと、けっこう世間が狭くなる。あんこ系が全部ダメなので、和菓子はアウト。まんじゅう、団子、ようかん、あんみつ、たい焼き、今川焼きなんかは基本的に全滅だ。汁粉とかおはぎなんかもだめ。赤飯なんかもおこわ系が好きなだけにつらかった。アズキをひとつひとつ拾ってよけないと食えないのだ(よけて食ったけど)。実は「あんかけ」系も敬遠していたのだけれど、こちらは勘違いだということに比較的早くに気づいた。

 

 で、アズキとぼくは違う世界の住人、運命がふたりを引き離し、二度とは会えない運命、そう思い定めて生きてきたのだけれど、最近、なんかの席で赤飯が出てきて、いい年してちまちまアズキをよけるわけにもいかないなと、思い切って一緒に食ってみたら、これがまあ、平気だったのだ。つーか、美味いじゃん。おれ、何がイヤだったんだろう?
 赤飯がまるごと食える嬉しさがわかるだろうか? ぶどうの種ありと種なしみたいなもんだろうか?

 

 で、それをきっかけに、濃いお茶で妻の作った羊羹食ってみたら美味かったり、生まれて初めてつぶあんの今川焼きを買ってみたら(いままではカスタードクリームだった)、いきずりの寒空の街角で焼きたての今川焼き買ってそこのベンチでほおばるなら、熱々のつぶあん以外に何を選べというのか、と天に叫びたくなるという、我ながらさわやかなくらい潔い転向ぶり。ようこそアズキワールドへ。不倶戴天の強敵、と思い詰めていただけに、味方となれば心強い。「隠し砦の三悪人」「ドラゴンボール」なみのびっくり展開だった。

 

 根拠があるわけではないが、これはきっと年齢と経験による変化のひとつなんだろうとぼくは思っている。かつてできなかったことができるようになったのだから、これは成長と呼んで差し支えあるまい。

  

 村上春樹が、「ビリー・ホリディがどれほど素晴らしい歌手かということをほんとうに知ったのは、もっと年をとってからだった」(ポートレイト・イン・ジャズ)と書いているけれど、ぼくにも似たようなことが起きたわけだ。だとすればこれからも、歳をとるにしたがってそういうことが起きるかもしれない。いままで苦手だったものが好きになるかもしれないし、いままでできなかったことができるようになるかもしれない。ひょっとしたら、機関車トーマスが怖くなくなったり、抜け毛が好きになったり、いきなりわけもなく金持ちになったり、うはうはにもてるようになったりするかもしれないではないか。

 

 そう思うと、歳を重ねるのも、悪いことばかりではないかもしれない。

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2011.11.16

修羅とマカロン

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妻が修羅のようにマカロンを作ってる。

 

ご存知の方も多いと思うが、マカロンというのは卵となんか変な粉をまぜて焼いて作るフランスの甘い菓子である。彼の地では、将来を誓った男女が結婚式でマカロンを投げ合って、血がいっぱい出たほうが負けという風習があるそうだが、本当かどうかはよく知らない。


踏んづけたピンポン玉みたいのを2つ作って、間にジャムとかクリームとかを挟む。ケーキなんかに比べるとシンプルな形だ。作るのも簡単そうに見えるが、実はたいへん奥が深いらしい。
味はもちろん、湿気た煎餅みたいな妙な歯ごたえとか、色とか、形とか、足(?)とか、ヒビ入っちゃ駄目とか、もうちょっとツヤがほしいとか、サクサクすぎてもつまらないとか、いろいろとレギュレーションがあるらしい。
形なんか食っちゃえばいっしょだと思うのだが、妻にとってのお菓子は総合芸術なので、妥協は許されないのだ。

 

妻はたいていのお菓子はそれなりに作っちゃうので、うまくいかないマカロンはかえって燃えるらしい。日がな一日キッチンから、ドリルの回転音やものの焼き焦げる匂いに混じって、悲鳴とか唸り声とか舌打ちが聞こえてくるので怖くて近寄れなかったのだけれど、日が落ちてから通りかかったら、マカロンの部品(マカロンコックというらしい)が山盛りになってて、大変怖かった。ぎゃー。

 

しかもそれがすべて失敗作だという。
こりゃ、当分夕飯はマカロンだな。マカロン丼にマカロンの塩焼き、マカロンの煮物にマカロンのおひたし、マカロン味噌汁に、食後のデザートにマカロン・・・と思ってげんなりしていたら、妻がラスク(?)にしちゃおうと言い出して、失敗マカロンをもう一度オーブンに入れた。

 

で、できたのがこれ。

 

Kogasimakaron


 

・・・・

 

なんかクッキーみたいだな。
香ばしい匂いがするぞ。


ちょっとかじってみる。

 

・・・・

 

なにこれ。

 

うまい。



おい、これ、マカロンよりうまいぞ。
あれは甘いばかりだけど、これはほんのり苦く、ほんのり甘い。
なんか味に芯がある感じ。
砂糖とキャラメルの違いだ。
しかも、この妙に力強い歯ごたえがなんとも。


いいよ、これ。
焦がしマカロンと名付けよう。
マカロンみんな焦がそう。


って言ったら、妻が怒った。

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2011.10.24

水辺のジェダイ

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 フライ・フィッシングは騙そうとする人間と、騙されまいとする魚の知恵比べだ。人間が上手なら魚が釣れるし、魚のほうが賢明ならどこかのおっさんが河原で癇癪を起こす。

 

 こういう変な釣りをいつ、誰が発明したのか知らないが、東西の暇人たちが、少なくとも数世紀にわたって、魚を騙す数々のテクニックを編み出してきた。手口には名前のついているものも多い。いわく、ドライフライ、ウェット、アウトリガー、ルースニング、スペイキャスト、ギャラクティカマグナム、エトセトラ。

 

 で、この釣りが面白いのが、そういう数々の戦術、戦略、手法、テクニックが、ちっとも完璧ではないところだ。時と場所が変われば、釣れない。魚が見えていても釣れない。なんか盛んに食ってても釣れない。隣のやつがばかすか釣ってても釣れない。
 いま、この場所で、どうすれば釣れるのか。 季節は? 水量は? 水温は? 風向きは? 天候は? 日の位置は? 星座の位置は? 血液型は? ラッキーカラーは? 妄想力を総動員して釣れる方法を見つけ出す。それがフライフィッシングの醍醐味の一つだ。
 その結果、新しいテクニックが発明されることだってある。

 

 北海道の川に、アメマスという魚がいる。

 

 この魚、潜水艦みたいに川底にべったり張り付く悪い癖がある。フライを思い切り沈めてやらないと魚に届かないのだけれど、沈めたフライは見えないから、ラインの途中につけたインジケーターの動きで、魚がフライをくわえた手応え(魚信=アタリ)を取る釣りになる。アタリの瞬間に竿をあおり(アワセという)、フッキングがうまくいけば魚が釣れるわけだが、魚だって釣られるのが好きというわけではないから、そう簡単にはいかないのだ。

 

 どうしたらこの魚がいっぱい釣れるか。世界中を釣り歩いたフライの先輩に相談したときのこと。ちなみにこの人はアメマスもスペシャリストで、川のどこにポイントがあり、どの淵はどのくらいの深さで、底がどんな広がり方をしているのかまで知っている。ひょっとしたらアメマスなのかもしれない。 

先輩 「この時期のアメマスは、正しいフライを顔の前に誘導してやれば、かなりの確率で食ってくる。だが、おかしいと思うと、さっさと吐き出してしまうのだよ。年季の入った大きな魚ほど、その傾向が強い」

ぼく 「なるほど」

先輩 「魚は深い位置にいるから、水面のインジケーターに魚の動きが伝わるまでに若干のタイムラグがある。アタリが出たときには手遅れなのだ」

ぼく 「それはやっかいですな。どうしたらよいのでしょうか」

先輩 「アタリが出てからアワセても遅いのだ。アタリが出る前にアワセるしかない」

ぼく 「・・・は?」

先輩 「だからアタリが出る前にアワセるのだ」

ぼく 「・・・どうやって?」

先輩 「・・・」

ぼく 「・・・」

先輩 「・・・フォースを使え、ルーク」

ぼく 「・・・」

先輩 「自分を信じるのだ」

ぼく 「・・・あんた誰ですか?」



かくしてここに新しいフライフィッシングの戦略が誕生した。

 

河底にターゲットとなる魚影を確認したら、心眼をもって、見えぬフライを魚の前に送るべし。見えぬ魚が身を翻し、フライをくわえたその刹那。わが無想のライトセーバー、4ピース8番のカーボンロッドが、大気の精シルフィードと水の精ウンディーネに導かれ、疾風の一撃をラインに伝える。
日輪がひらめき、水柱とともに大いなる龍が姿を現すだろう。
これぞ東洋の神秘。
フォースの釣り。

 

もちろんフォースをマスターするには、長く辛い修行が必要だ。
しかし。
人間、やろうと思ってできないことはそうはない。
ダイエットだってやろうと思えばできるのだ。

 

かくして。

 

フォースの一端に触れ、興奮気味のぼくと妻。
帰りの飛行機の中で。

 

ぼく 「いや、驚いた。フォースの威力はすごいな」

妻 「うん、やっぱりフォースだね。フォースを使わなくちゃだめだ」

ぼく 「だが失敗も多かった。もっとフォースを磨こう。おれたちはまだまだだ」

妻 「そうね。ダークサイド(=スレ。フライが魚のヒレなどにひっかかってしまうこと)には注意しなくちゃいけないけど、正しくフォースを使えば、もっとうまくいくよ。がんばろう!」

 

あとで気づいたんだけど、テンション上がっててちょっと声が高かったかもしれない。

まわりの席で聞こえてた人は、何だと思っただろう?

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2011.09.19

土より始めよ

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これ、ぼくの目下の主食。
うちのあたりではタマネギと呼ばれている野菜の一種だ。

 

作ったのは義母上。
もともと土いじりの好きな人で、鉢植えなんかを綺麗に咲かせるのが上手だったが、パートを引退してから野菜を作り始めた。タマネギ、大根、じゃがいも、大豆、ゴーヤにインゲン、トマトにカボチャ。ナス、にんじん、トウモロコシ、スイカ、ブロッコリ、葉物もあれこれ。これがまあ立派なもので、新鮮だからなのかほかに理由があるのか、風味が濃い。ミニトマトなんかちょっと皮は固いけど、そのままボリボリ食うと血の中にトマトのエキスが流れこむような気がして止まらなくなる。

 

中でもいっぱい作ったのがタマネギで、我が家もおこぼれにあずかった。ハンバーグとかオムレツとかじゃ使い切れないので、タマネギメインのレシピをいろいろと試し、最近気に入っているのがざくざく厚切りにしてオリーブオイルをかけ回し、岩塩を振ってレンジで5分くらいというやつ。簡単だしオリーブオイルのせいでそれなりにボリュームが出て、食った感がある。でかいのをひとつ食うとそれで結構満足してしまうので、最近は毎日タマネギを1つずつ食って暮らしている。減量中の力石徹の夕食はりんごがひとつ。ぼくの夕食はタマネギひとつ。なんか切なく聞こえるけど、当人はけっこう満足している。タマネギうまい。

 

生産者が気安いせいで、一つ要望を出させていただいた。

 

辛い大根おろしが食べたい。辛い大根で、しらすおろしご飯が食べたい。
ぼくが子どもの頃に食べた大根おろしは、辛かった。大人の食べ物だった。あれを泣かずに食べられたら、大人への階梯をひとつ上がることになるのだと、ぼくは信じていた。
最近スーパーや八百屋で売っている大根は甘い。おでんやふろふきにするとうまいが、大根おろしは水っぽくて食った気がしない。小さい辛味大根は妙に高いし、やっぱりなんか違う。子どもの頃に憧れた、あの大根が食いたい。
で、しばらくして我が家にやってきた大根は、辛かった。ぼくはその大根を崇め、慈しみ、抱いて寝た。しらすおろしご飯は辛かった。ぼくはやっぱり泣いた。

 

義母上ならぼくの夢をかなえてくれるかもしれない。

 

うまい沢庵が食べたい。うまい沢庵をもう何十年も食べてない。
スーパーでも売っているけれど、あれ、なんだか甘くてベタベタしてて気持ち悪い。沢庵ってああいう食い物じゃない。もっとぶっきらぼうで、不器用で、まっすぐだ。健さんみたいな食い物だ。健さんみたいな沢庵が食いたい。
そう思ったぼくは、かつて自分でぬか床を手に入れようと思った。でもぬか床ってなんだかわからないので、インスタントぬか床というのを買ってきた。取扱説明書を読んで、干した大根は手に入らなかったので、きゅうりとかナスを入れてみた。出来上がったのはスーパーの漬物だった。

 

実は義母上は漬物名人である。
しかもその技は封印されているらしい。

 

かつて、自分で作った漬物が旨すぎて食い過ぎで何度も腹をこわし、義母上の母上、つまり義祖母上に叱られたらしい。

 

封印されしその技。
可愛い義理息子のために、復活してはいただけまいか。
いや、可愛くなくてもいいから。
ほら、うまいつけもの、食いたいでしょ。義母上も。ね。ほらほら。

 

妻に聞くと、義母上は先日、沢庵用の大根の種を手に入れたらしい。
そこからですか。
さすがは禁呪。
禁じられし魔性の技が、いま蘇ろうとしている。

 

この冬、ぼくは泣きながら沢庵を抱いて寝る。

 

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2011.09.04

夏の終わり

 

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 ともに一夏を駆け抜けたおんぼろのウェーディングシューズ(川の中をじゃぶじゃぶ歩くための靴)。主観的には修理しようとしたつもりだが、客観的にはむしろおんぼろ具合が進行したため、洗ってウッドデッキに干しておいたらセミが利用したらしい。中身はどこに飛んでいったか知らないが、ぼくらよりさらに短いセミの夏。楽しくやってくれたらいいなと思う。

 楽しみも多かったが、心配事も多い夏だった。妻が足を痛めたり、犬が手術をしたり。幸いどちらも心配はないようで、ほっと一息つきつつ、往く夏を見送る。

 普通の日々が、普通に続くことって、本当に大切なことだ。普通に暮らしているとよくわからないのだけれど。けんめいに、普通に暮らそうと思う。

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